【 話題のブログはこちら!】学校教育の意義って何だろう。
一般には学校は勉強をするところと思われている。
昔は「一生懸命勉強しないと、立派な大人にはなれませんよ」なんて言われた。
この台詞、昔は(高度経済成長くらいまでだろうか)本当にそう信じられたかもしれないが、我々の世代ではもうすでに誰もそうは信じておらず、その言い回しも「一生懸命勉強しないと、いい大学には行けませんよ」になっていた。現代の我々は誰しも、一生懸命勉強したかどうかと、立派な大人になれるかどうかは無関係だと知っている。
学校教育が職業上必要な知識を直接にカバーしている事はほとんどない。特殊な専門知識が必要な職業の場合はソレ用の専門課程で知識を得る必要があるが、大抵の職業知識は就職後の研修とかOJTとか現場経験とかで賄っているのが現状だ。就職後の学習能力・習得能力さえ担保されれば、社会(あるいは産業界)は学校教育での知識は必要としていない。
学校教育で得られる知識そのものは、重要ではなさそうだ。
ちょっとものの分かった人は、学校教育の意義として、知識の習得以外にも、例えば集団生活を通じての人格形成とか、社会生活、集団生活のルールを学ぶ事とかを挙げてくる。
うがった見方をする人は、毎日同じ事を繰り返す生活を、小さい頃から身体化させ、嬉々としてそれを行わせる、あるいはそれが人生だと思わせる、少なくともそれに耐えうる人格を形成し、工場労働者とかサラリーマンになれる人格を大量生産するのが学校教育の意義だ、なんて言ったりする。
じゃあ結局、子供たちは規則正しい生活をして、忍耐力を養って、集団生活の中での振舞い方を学んで、つまりは工場労働者マインドを醸成するために学校に通うのだろうか。保護者たちはサラリーマンたりえる人格に育ってほしいと思って子供を学校に行かせているのか。
あとは人脈とか。階級・階層にあった所作振舞いを身につけるとか。一生懸命勉強していい大学に行くのは、結局「いい大学」が与えてくれる教育の内容が重要なのではなく、そこで得られる人脈とか所作振舞いとかが重要なのだ、という社会学者もいる。
そう言った理由もあるだろうが、最も大きな理由はそんなものではない。子供たちが学校に通うのは、あるいは保護者たちが子供を学校に通わせるのは、それが「いい大学」へ、「いい就職」へ繋がっていると信じているからだ。つまりはパイプラインシステム。なるべく「いい就職」へ繋がっているパイプに入る事が重要で、そこで得られる知識は重要ではない。

(しばらくのあいだ、猫パンチをお楽しみください)
そこで、このパイプラインシステムが崩壊の危機にあるとしたらどうだろう。このパイプ、すでに一部は崩壊し機能しなくなっている。あるレベル以下の高校では、パイプの先には「大学」も「就職」も繋がってなくて、ただ轟音とともに水が流れ落ちるだけだとしたら。
パイプラインシステムがその先を約束してくれるからこそ、卒業までの辛い学校生活を耐えるのだとしたら、パイプの先に何も繋がってないと分かった時、それでも子供たちは学校に行くのだろうか。親たちは、子供たちを学校に行かせるだろうか。もし行かせるとしたら、それは何のために?
知識を習得するためだろうか。
集団生活を通じて人格形成を行うためだろうか。
人脈とか、階級・階層にあった所作振舞いを身につけるためだろうか。
このパイプラインシステムが今後も崩壊の一途を辿り、ちゃんと機能するのは全体の1割程度、あとの9割はパイプの先を何も約束してくれないような事態になった場合、その9割の高校生は、大学生は、あるいはその親は、それでも学校に価値を見出すだろうか。パイプに頼らず自力で望ましい将来を勝ち得なければならない社会でも、人々は学校に価値を見出すだろうか。
つまりそれが、パイプとしての価値以外の教育の価値ということになるのだろう。
参考文献:
「下流志向」内田樹
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